吉田 定経(よしだ さだつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権大納言吉田経房の長男。母は平範家の娘。従三位・参議。

経歴

仁安2年(1167年)に後白河院判官代に叙爵。同3年(1168年)安房守。安元2年(1176年)には院分国の美濃国の国司に任ずるが、平清盛による治承三年の政変において解官される。

文治元年(1185年)五位蔵人。同3年(1187年))には壇ノ浦の戦いで逸失した天叢雲剣の最後の大捜索が行われ、定経は後白河院と九条兼実の間を頻繁に往来して、伝奏を務めている。同4年(1188年)には右少弁・左衛門権佐を兼ね、三事兼帯を果たす。同年、父の経房が勧修寺流の長者に任ぜられると、やがてその後継者と目せられるようになり、順調に公家社会に地歩を築いていった。のち蔵人頭を経て建久8年(1197年)に参議となり、正治元年(1199年)には従三位に叙せられた。しかし同年、菩提心を発し、天王寺にて出家(法名は蓮位)。これに憤激した父・経房は定経を義絶し、その長男・資経を養子として吉田家の後嗣とした。

晩年は不孝な態度を改めない次男・経賢との確執もあり、決して穏やかではなかった。寛喜3年(1231年)、76歳で死去。日記として『西記』を遺している。また、勅撰歌人として『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に四首が採録される。

系譜

  • 父:吉田経房
  • 母:平範家の娘
  • 妻:平親範の娘
    • 長男:資経(1181-1251)
  • 妻:源定房の娘
    • 次男:経賢(1190-1246)
  • 生母不明の子女
    • 男子:為定
    • 男子:経親
    • 男子:光経
    • 男子:能経
    • 男子:弁経
    • 男子:定愉
    • 男子:房通
    • 男子:経舜
    • 女子:経子(藤原光親室、順徳天皇乳母)
    • 女子:水無瀬信成室

参考文献

  • 新日本古典文学大系 41『 古事談 続古事談 』 2005年11月発行 ISBN 4-00-240041-7 川端善明、荒木浩
  • 『鎌倉・室町人名事典』安田元久・編

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